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  • 執筆者の写真morinone

【季節つぶやき事典 第3回】



これまでお話をしてきたように、日本人は時間の流れを正確に測り知ることだけでなくて、日常のくらしに寄り添った季節を感じる暦を望んで作り上げてきたことがわかりますね。


日本には、他にもまだ、日本独自に季節を表す目安があるのをご存知ですか?


「桃の節句」や「端午の節句」と言えばおわかりになるかと思います。





なんとなく行事のひとつの様に使っているこの「節句」というものも季節を表す指標で、旧暦と密接な関係があるのです。


そのあたりのお話を今回はしていこうと思います。




五節句(ごせっく)

五節句・五節供」と言われる風習は、中国から伝わった考え方に 日本 の宮中行事などが合わさったものです。

江戸時代の初期には江戸幕府によって「 式日(しきじつ) 」と定められ公武行事として行われました。


この風習が武家から民間にも広まり、次第に一般にも定着したとされています。

江戸幕府が決めた「式日」は、明治時代に入って暦を「太陰太陽暦」から「新暦(太陽暦・グレゴリオ暦)」に改暦した時に廃止されました。


しかし、日本人のくらしは稲作を中心としていたため日常に定着し、節句は日本の季節行事として深く根を降ろしてきました。そして広く民間に根付いて現在に至っているのです。


その式日を節句(せっく)といい、代表的なものに五節句があります。

五節句には、3月3日、5月5日のように奇数の重なる日が選ばれています。


ただし1月だけは1日(元旦)を別格としたので、1月7日の人日(じんじつ)を五節句の中に取り入れてあります。


この五節句の特徴としては、お正月の七草、3月の上巳(じょうし/じょうみ)の桃、5月の端午(たんご)の菖蒲、7月の七夕の竹、そして9月の重陽(ちょうよう)の菊というように、季節の草木に彩られていて、やはり先人たちは動植物から季節を感じることが多かったことがうかがえますね。


先人たちにとって、節句は一種の民間の神事でした。そして同時に、人々が祈りを共にすることでつながりを深める行事であり、日常の雑事を忘れて身体を休め、普段はあまり食すことのない滋養のあるものを食べて養生する貴重な機会でもあったのです。 現代では、神事としての意味は薄れてしまっていますが、節句の祝いは、祖父母から孫までが世代を超えて団欒の時間を共にする、貴重な機会となっているのではないでしょうか。


ひなまつりや端午の節句に、お雛様やこいのぼり、兜を飾り、ひなあられや柏餅を食べて自分の成長を祝福してくれたことは、なんとなく子供心に嬉しく感じたものです。





そんな機会をきちんと次の世代へも受け継ぐことで、世代を超えた家族のつながりを大切にする豊かな気持ちが自然に育まれてきたのでしょう。


現代の季節感の乏しくなったくらしの中に、節句の飾りや、季節の料理で一緒の体感をすることは、四季を味わい楽しみながら、家族のつながりを感じられるよい機会ですね。先人たちが残してくれた大切な日本の文化ともいえます。

では、ご節句のひとつひとつを見ていきましょう。




【人日(じんじつ)】1月7日

 1月7日は「人日の節句」です。別名「七草」「七草の節句」「七草の祝い」などとも言われます。




 「人日の節句」の「人日」は、中国の前漢時代の占いの書に「正月一日は鶏を、二日には狗(いぬ)、三日には羊、四日には猪、五日には牛、六日には馬、七日には人、八日には穀(こく)を占う」と記されていたことによるといいます。


中国では7日に、その年に取れた若菜を“あつもの”(スープ)にして食べる風習が古くからありました。この風習と、日本の宮中で1月15日に7種類の穀物の粥(かゆ)を食べて五穀豊穣(ほうじょう)を祝っていた風習とが融合し、現在に「七草粥」として伝わったといわれています。

「七草粥」に入れるのは「春の七草」で、7種類の植物、野草です 。


一月七日の朝に春の七草(セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)の入った七草粥を作り、ようやく芽吹いた春の七草の「気」をいただき、その一年の無病息災を願って食べます。

これは冬に不足しがちなビタミンCを補い、また祝い酒で弱った胃を休める為とも言われています。



セリ・・・・・・・ ナズナ・・・・・・薺 :別名「ペンペングサ」 オギョウ(ゴギョウ)御行・御形 :「ハハコグサ・母子草」のこと ハコベラ・・・・・繁縷・蘩蔞 :「ハコベ」のこと ホトケノザ・・・・仏の座 :現在の「タビラコ・田平子」 スズナ・・・・・・菘・菁・鈴菜:「カブ・蕪」のこと スズシロ・・・・・蘿蔔・清白:「ダイコン・大根」のこと




【上巳(じょうし)】3月3日


3月3日は「上巳の節句」です。





「上巳(じょうし/じょうみ)」とは中国の旧暦3月の最初の巳の日をいいますが、行事の日付が変動しないよう3月3日になったそうです。


中国伝来の、春を祝い、無病息災を願う厄祓い行事の上巳の節句を起原とします。


上巳の時期は季節の変わり目なので、災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられ、水辺で穢れを祓う習慣があったそうです。それが日本に伝わると「上巳の祓い」として、紙や草で作った人形(ひとがた)に穢れを移して、川や海へ流すようになりました。


その後、「ひいな遊び」「ひな遊び」と呼ばれた紙の人形で遊ぶままごとが盛んになり、上巳節と結びつきました。そして男女一対の「ひな人形」に子どもの幸せを託し、厄を引き受けてもらって、健やかな成長を願うようになったということです。


その後、5月5日の男の子の節供に対して、3月3日が女の子の節供となり、日本では神聖な木とされていた桃の木で邪気を祓う「桃の節句」や、女の子の健やかな成長を願い雛人形を飾る「ひな祭り」という日本固有の文化となって、現代に受け継がるようになそうです。


この様に紐解いてみると、もともとは女の子のお祭りではなかったということが見えてきて面白いですね。



【端午(たんご)】5月5日


5月5日は「端午の節句」で、こどもの日として国民の祝日となっていますね。


「菖蒲の節句」「あやめの節句」とも言われます。





中国から伝わった端午の節句を起原とし、鎧兜や人形を飾り、立身出世を願い鯉のぼりを掲揚して、誕生した男児を祝福し、無事にたくましく育っていくことを祈りました。





この日に菖蒲や蓬(よもぎ)を屋根や軒に挿して邪気を払い、「菖蒲湯」につかり、粽(ちまき)や柏餅を食べたり菖蒲酒を飲んだりします。 菖蒲や蓬で邪気を払う行事が、武士の時代になって、「菖蒲」を「尚武」(武事を尊ぶ)とかけて、男子の節句として祝うようになったといわれています。






【七夕(しちせき)】7月7日

7月7日は「 七夕 節句 」です。


「七夕」「七夕祭り」「七夕様」などとも呼ばれ、天の川の両脇にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、7月7日の 夜、星を祭る行事が行われます。





日本古来の豊作を祈る祭りに、女性が針仕事などの上達を願う中国伝来の行事などが習合したものと考えられています。


有名なのは、「 織姫 」と「 彦星 」、中国の「 織女 (しょくじょ)」と「 牽牛(けんぎゅう) 」のお話で、天帝が夫婦にさせた 機(はた)を織る娘と牛飼いが、あまりに仲が良く、仕事をしないので、怒った天帝が天の川を隔てて別々にさせてしまい、年に一度だけ逢うことを許したというものですね。

人々は「織りひめさまのように、はた織りやおさいほうが上手になりますように」と、野菜やくだものをそなえて、おまつりをするようになりました。


後には、貴族たちが短歌を書くための短冊に願い事を書き、それが時が流れるにつれて変化して、江戸時代には詩歌や手習いの上達を願うようになったとのことです。



元々「七夕」は、「6日の夜から7日の朝」にかけて行われていたとされていて、「七夕飾り」は6日の夕方に飾って、7日の夜には取り込むのが本来のしきたりともいわれているようですね。




【重陽(ちょうよう)】9月9日

 

9月9日は「 重陽 節句 」で、「菊の節句」とも呼ばれます。


中国では、昔から奇数が縁起のよい「陽」の数とされていて、一番大きな陽数の「9」が重なる日、すなわち9月9日をめでたい日として重んじたのが重陽 節句です。日本では江戸時代に入って五節句の一つとなり、不老長寿や繁栄を願う行事となり庶民の間にも広まりました。

「菊の節句」とも呼ばれる所以は、菊の花が不老長寿の薬草とされる菊を浮かべた菊酒を飲み、菊の被綿(きせわた)に溜まった露で体を拭いて邪気を払う風習があったためとされます。


季節ごとに、桜餅や柏餅がお店に並べばなんとなく買って、おやつに頂くといったご家庭も多いのではないでしょうか。

季節の節目節目にそのいわれや経緯があって、知るとまた面白く、会話を広げたり、思いを馳せることができますね。


今回はここまでにしますね。


まだ、日本古来の季節を表す雑節というものもあるのですが、そちらはまた改めて。

是非、時折わたしのつぶやきに耳を傾けてみてくださいね。

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